[↑]
ツィリは目に見えてわかるほど血の気が引き、ぐいっと涙をぬぐって険しい目つきになった。
「ツィリ、何を泣いているの?」
穏やかそうな女性の声だ。
啓はそろりと振り返った。なんとなく、大きな動作はやめておいた方が良いような気がしたのだ。
栗色の髪。ツィリのぴょこぴょこ跳ねたものと違って、ストレートパーマをあてたようにさらさらだ。肩で揃えられている。だが、どこか、ツィリと似ているような気がした。
「別に。」
ツィリがちらりと啓の方を見る。
「さあ、いつもの特訓の時間よ。用意して。」
「嫌だ。」
ボソリと呟いた。女性は首をかしげて少女を見つめる。そして急に啓に目を向けた。目を細める。
「…ハエが、居るわね。どこから入り込んだのかしら。」
啓は足元から競り上がってくるような寒気を覚えた。今までに経験したことがないものだ。
―――やばい。
ダメだ、逃げなきゃ。
ピーと頭の中で警告音がけたたましく鳴り、血がざわざわと騒ぎ立てる。心臓は、言うまでも無い。
わかってる、わかってるわかってるわかってるってば!やばい!!
―――なんで体動かないのよ!!
心の底からの悲鳴だった。けれど、それが声になることはなく、身体も動かないままだ。心なしか呼吸も浅くしかできていないような気がした。
動け、動け動け動け!!逃げるんだから!
女性はつややかな髪をなびかせながら一歩、また一歩と啓の方に歩いてくる。
そしてついに、目の前まで来た。すらりとした腕が持ち上がる。
やばいやばいやばいやばい―――!
「やっぱり行く!すぐに行く!今すぐに特訓するから!!」
啓の心に負けず劣らずの絶叫だった。
女性にしがみついたツィリはぐいぐいと彼女を扉の方へ押す。
「だからさっさと…」
そして持ち上げた片足で啓の無防備な腹部をしたたかに蹴とばした。
「帰って!!」
□□□
「い゛っ…!!」
歯を食いしばって声を飲み込んだ。
―――戻ってきた。
見慣れた天井。見慣れた室内。
依然として心臓は慌しく、鳥肌も治まってはいなかったが、それも落ち着いて深呼吸を繰り返すうちに平常に戻り始めた。
「…へあー。」
無意味な音を発して、啓は息をつく。
「落ち着いた。」
起き上がろうとして腹部の痛みに顔をゆがめる。
「受身も何も取れなかったもんね…。」
受身どころか、腹筋に力を入れることすらできなかったのだ。完全な無防備状態。お陰でツィリの蹴りが異常なほどに効いた。
「青あざ、出ないと良いけど。」
ぽつりと呟いて起き上がった啓は腹部を撫でながら、立ち上がる。
―――まだ足震えてるし。
苦笑して、それから再度深い深い息を吐いた。
「…帰って来れて良かった…!」
しゃがみこんで両手で身体を抱きしめる。
自分に何が起こっていたのかはわからない。わからないけれど、危険な状況だったことは確かだ。
しょせん夢だと高をくくっていたが、そうではないこともはっきりした。
「夢なら、今もお腹が痛いのはおかしいもんね。」
ツィリが助けてくれなかったら、どうなっていたかわからない。
―――ありがとう。
すぐに助けに行くからね。寂しいと思うけれど、待っていてね。
死なないで。
「早く出発しなきゃ。」
□□□
モニカに出発することを告げると水と食料をくれた。
「行き先は決まってるの?」
啓は頷く。
「…まさか、幻の都?」
彼女は冗談のつもりだったのだろう。しかし、啓は少し笑って頷いた。
モニカが仰天して大声を上げる。
店のお客が注目した。彼女は声のトーンを落として啓に尋ねる。
「正気なの?」
「もちろん。」
「…そう。見つからなかったら戻ってきなさいね。」
彼女は笑って言った。啓も苦笑する。
案外、そうなってしまうかもしれない。
ガーティが目星をつけているといっても確かではないのだ。
「じゃあ、さよなら。」
「気をつけてね。」
モニカちゃんはいつもの水汲みに行っているようで留守だった。会えないことに少し寂しさを感じるが、もたもたしていられない。
□□□
「もしかしてアリタリさん?」
外に出た啓はガーティの隣に立っている人物に目を向ける。二頭のラクダとガーティと、もう一人。
見覚えのありすぎる顔だ。
「お嬢ちゃん、久しぶりだな。金は足りてるか?」
あの換金屋さんだった。
「え、あ、その節はどうもありがとうございます。まだ間に合ってます。」
ぺこりと頭を下げつつも、脳内は「?」な状態だ。
「おはよう、ケイ。アリタリは見送りに来てくれたんだよ。」
ガーティがそう言って、ラクダの手綱を啓に手渡す。
「あ、そうなんだ。ガーティと知り合いだったんですね。」
受け取った啓は少し引っ張った。独特の足音を立ててラクダが歩き始める。
「知り合いも何も、あいつをを雇ったのは俺だ。」
「…え?」
昨日のガーティの話によると、彼は情報収集とそのほかにある依頼を受けて幻の里を探しているとのことだった。その依頼というのはズバリ、行方不明者の捜索。啓と同じだ。
依頼主は、大富豪さんだと聞いていた。昨日はその依頼主のところへ行こうとしていたらしい。その途中で啓と出会ったわけだが。
「じゃあ、アリタリさんが、大富豪さん?」
ガーティは頷く。
「そういうこと。」
なるほど、どうりで金貨銀貨をざっくざくと持っていたわけだ。大富豪ならば珍品をコレクションしていてもなんの疑問もないし、あの豪華絢爛な邸宅も趣味の悪さも、なるほどね、で済ませられる。
家を二つ持っていても、自宅と別荘だと思えば、ふーん羨ましい、となる。
「貿易を生業としている。…ま、こういった不毛の地では最も重要と言って差支えない仕事だよ。」
少し自慢げに、それでいて疲れたようにアリタリは言いながら啓のラクダに鞍を乗せた。
「ありがとうございます。」
「いや、これぐらい当然さ。…俺は行けないからな。」
ガーティが出発を促した。啓はアリタリに聞きたいこともあったのだが、諦めてラクダによじ登る。
「ガーティ、私ラクダの動かし方知らないんだけど…。」
乗ることはできたが、そこから歩かせたり方向転換をしたり走らせたり、となると全然ダメだ。馬にも乗ったことが無いというのに。
呼びかけられた彼は一瞬きょとんとしてから答えた。
「良いよ。俺、知ってるからリードしてあげる。」
彼は立ち止まると鞄の中から紐を取り出した。それで2頭のラクダを繋ぐ。
「これでよし、俺のラクダが歩き始めたらケイのラクダも引っ張られて進むだろ。」
「ありがとう。」
ほっと息を吐いた啓を見てガーティも微笑んだ。
「んじゃあ、行くよ。…俺はまぁできる限り頑張るからさ、アリタリも死なないようにせいぜい頑張れば。」
「そっちこそ途中で行き倒れて、鳥に食われても俺は助けられないからな。気をつけることだ。じゃあな。」
―――なんてやり取り!!
呆れもしたが、同時にお互いへの信頼みたいなものをみせつけられた気がして、羨ましいなと思う。
アリタリを残して、ラクダは進み始めた。啓は振り返って手を振り、前に向き直る。
自分だって少し前までは信頼できる仲間が居たんだ、今だって傍に居てくれるんだから、と考えて励まそうとしたが、残念ながら失敗で、さらに凹んでしまった。
理由は簡単、メシャル達が最近夢に出てこないから。
どうしたんだろうと思うのが大部分だけれど、微少ながら安堵している自分が居ることも否定できない。
また、無視されたら?
啓は首を振って考えを追い出そうとする。
「どうかした?」
ガーティの問い掛けに啓は苦笑して「なんでもない。」と答える。
―――何か、事情があったに決まってる。
悪い方に考えるのはやめる。きりが無いから。今度会ったらクライドに分身の仕方、教えてもらおう。
「ケイ、俯いてないで顔上げなよ。」
啓が顔を上げると眼前に砂漠が広がっていた。
「う…わ、すごいな。」
「感動するのは勝手だけど見た目に騙されちゃダメだよ。」
ガーティが釘を刺す。しかし、啓の目は依然として輝いている。
―――芸術品みたいだ。
なだらかな斜面、先の見えない黄色い世界。
「ほら、フードかぶって。照り返しがすごいからここからは気温が一気に上がる。」
啓は「すごいなー」としきりに呟きながらフードをかぶった。ガーティは呆れたように首を振る。
この二人の旅はどうなることやら。
とにもかくにも、啓はやっと幻の里へ向かって進み始めた。
BACK TOP NEXT
[↑]