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揺らめく都へ(1)




 ―――また、闇だ。
 あれからガーティと別れて、出発の準備を整えて床に入った。
 そして、また闇の中に来ている。
 先日の夢もこれと同じだった。あのときは、メシャルのことを思い出して寂しくなったんだったな、と振り返る。
 啓は以前よりもはるかに落ち着いていた。

 “ 食べ物もあって、住む場所があって、お金にも困らない。 ”

 ぼやきが再び舞い落ちてきた。
 ―――なんなんでしょうね、これは。
 啓は首を傾げつつ様子を伺う。

 “ それなのに、どうして私はこんなにも逃げ出したくなるのだろう? ”

 以前と同じ少女であるらしい。未だに悩み続けているようだ。
 「…ねえ、せっかくだから話くらい聞くわよ。私にわかるように説明してくれる?」
 前後不覚の闇の中、啓は一歩一歩と声へ向かって進む。
 「何がそんなに怖いの?あなた、いったいどこに居るの?」

 突然がたりと足元が「抜けた」感覚、そして辺りがぼんやりと明るくなった。

 □□□

 「な、何?驚く暇もなしって感じなんだけど。ここ、どこ?」
 蝋燭のぼんやりとした光が照らし出す部屋は、立方体で小さな窓が一つ。ベッドと机と椅子がある。
 砂を固めてあるコンクリートのような床に啓は座り込んでいた。
 「こんなところ、記憶に無いし。これ、ほんとに夢なの?」
 啓はそろりと立ち上がると何気なく椅子を引いた。

 「…っ誰だ?!」

 「えっ」
 突然の怒声に驚き、声の主を探す。
 割とすぐに見つかった。小柄な少女だ。
 ―――わぁ、かわいい。
 くりくりとした丸い目に吸い込まれそうだ。今はすごい厳しい目つきだけれども。
 短い髪の毛も元気良く外に跳ねていて、無邪気さをかもし出している。
 そして、その声は闇の中で響いていた、あのどこか泣きそうな声だった。
 「そこに、だれか、いるのか?」
 おそるおそる、といった調子で少女は啓を見ているが、微妙に焦点が合っていない。
 「居るのか、って居るじゃない。」
 啓はそう答えつつ椅子に腰掛けた。少し古いものだったのか、ギシッときしむ音がする。
 「やはり、誰か居るのだな?今その椅子に腰掛けただろう?…もしや透明人間、か?」
 少女は依然として厳しい目つきをしているが、今度は一歩前に踏み出した。啓との距離が縮まる。
 ―――…透明人間?
 一方で啓は現状が理解できず、少女の声に耳を疑った。
 慌てて手足などの身体を確認するが、なんらいつもと変わることなくそこに存在する。見える。
 「もしかして、あなたにだけ、見えていないの?」
 少女は啓の疑問には答えない。
 「え、もしかして聞こえてないの、私の声。」
 返事は無い。いい加減、むなしくなってくる。少女はその間も少しずつ啓に近付いてきて、やがて2、3歩のところで止まった。
 「一つ尋ねる。」
 少女とは思えない不遜な態度でのたまう。
 「お前は人柄の良い透明人間か?イエスかノーで答えろ。イエスなら机の上のティーカップを持ち上げろ。」
 ふむ、なるほど。
 啓はティーカップを持ち上げて、下ろした。
 「良い透明人間なのだな。信じるぞ。」
 啓はまた、ティーカップを持ち上げる。
 ―――ふふ、ちょっと楽しい。
 夢だと思えば、どんな大胆なこともできるというものだ。
 「ここでこうして出会えたのも何かの縁だ。せっかくだからツィリの話を聞いてほしい…。イエスかノーか。」
 ツィリ…?自分の名前かな。まぁ、いいや、なんでもこい。どんとこい。あの闇の中に比べれば今の現状の方がよほど気楽だ。
 啓はティーカップを持ち上げてくるくると回した。
 「ツィリは、今とても恵まれた環境に居る。この部屋で監禁されているわけじゃないんだ。時間は決められてしまうけれど、外にも出してもらえるし、その時間中は自由に歩きまわれる。それで、この通り自分の部屋もあるし、食べ物も何もしなくても運ばれてくる。服にも困らない。襲われたりもしない。」
 「ふぅん、あなたお嬢様なの?」
 外の世界の人々と比べたら贅沢な日々なのではないかと思う。
 「…とても、恵まれていると思う。」
 「そうね。」
 少女はここでもじもじと足の指をこすり合わせている。
 「でも、怖いんだ。」
 ぽつりとそう言った。
 「…何を、話しているのだろうな。」
 自嘲する。
 「ツィリはもう狂っているのかもしれないな。透明人間なんか、居ない。わかってる。きっと幻聴と目の錯覚だ。」
 失礼な。私は確かにここに居るんだからね!
 啓はティーカップで机を叩いた。ささやかな自己主張である。
 「誰にもこのことは話せなくて、一人で怖くて怖くて、どうしようもないんだ。透明人間でも何でも良い。この際だ。そこにお前は居ると信じよう。そして話をする。これ以上こんなの溜め込んでいたら、発狂しそうだ。」
 そういって一瞬押し黙り、また語り始めた。
 「ツィリは少し前にここに来た。別にここを目指していたわけではないんだ。近くの町に泊まっていたのだけれど、ある日散歩に出て、それでラクダの子供を見つけたんだ。」
 「ラクダの子供ねぇ。」
 少女がはにかむ。
 「とても可愛くて、ラクダが欲しいと思っていたころだったから、ちょうど良いと思って追いかけた。ろくな荷物も持たずに。」
 手持ちの品はあれだけだ、と形の良い人差し指で示したのは長い黒い、棒。
 「今思えば、どうしてそんなことをしてしまったんだろうと疑問に思う。砂漠の怖さは身に染みていたはずなんだけど。…少し、油断したのか、ラクダを見つけて舞い上がってしまったのか、とにかく必死に走ってそのラクダを追いかけた。そして、気付いたら町からは随分離れてしまったみたいで、砂漠のど真ん中だった。」
 「うわぁ…」
 声のかけようが無い。
 「ラクダを追いかけ続けていれば、まだ望みはあった。けれど、それも諦めてしまって、水も食べ物も自分の居る場所もわからないという有様だった。疲れきって、もう死ぬんだと思ったよ。」
 そりゃあそうだ。ガーティから少し砂漠の話を聞いたが、とても過酷そうじゃないか。こんな小さな少女が一人で棒しか持たずに……棒しか持たずに?
 一瞬周りの音が遠ざかり、耳鳴りがする。

 ―――『自分の背丈くらいの棒を持っていたんですって』

 素早く棒に目をやると、確かに大きな棒だった。立ち上がって傍に寄る。手に取った。
 思ったよりも太い。が、握り締めるにはこれくらいがちょうど良いだろうとわかる。よくよく見ると金箔で細工が施されていた。
 「なかなか芸が細かいわね」
 ぽつりと啓は呟いた。
 「良い代物だろう。」
 ツィリが微笑んで棒を見ていた。
 「思い出の人がくれたものだ」
 少女は少し息を吐いて、肩の力が抜けたようだった。
 「砂漠で飢えと渇きで倒れていたとき、ふと大きな門が見えた。門の中では人々がちらちらとツィリの様子を伺っていた。それを見た瞬間からはもう、無我夢中だった。『入ってくるな』といろいろな人に邪魔をされたんだが、片っ端からその棒で殴り倒して無理やり門の中に転がり込んだんだ。…どうしても、生き抜きたくて。」
 「…。」
 こんな少女が倒れているというのに、助けもせず伺い見ていた人々の気が知れない。おまけに入ってくるな?それは無いだろう。あんまりじゃないか。
 ツィリはふっと笑みをこぼす。
 「申し訳なかったな。振り返れば、遠慮も何も無かった。さぞかし、痛かっただろうな。大人も子供も見境がなかったし。」
 笑いつつも、だんだんとその顔は俯いてしまって、最後には完全に下を向いてしまった。きゅっと握り締められたこぶし。啓は傍によってそっと手を添えた。
 「罪悪感にとらわれる必要はないと思う。」
 その瞬間ばっとツィリが顔を上げた。ぱちぱちと瞬いている。
 「声が、聞こえた…!今、手を握ってくれているだろう?!…わぁ、あの人以外の人と話すのは随分久しぶりだ!本当に居たんだ!」
 ツィリは興奮が抑えられないようで、添えていた啓の手を握り締めている。  しかし、啓はと言うとそれどころではなかった。
 ―――熱い!!
 握り締められた右手の甲がライターであぶられているようだ。
 しかしツィリの手を振りほどくのも気が引けて、必死に耐えていた。
 ―――私、絶対に根性焼きなんかしないでおこう!こんな熱いの、二度とご免よ!
 そんな啓の気も知らず、ツィリは無邪気に笑って、そして急に相好を崩した。
 「…ありがとう。偶然でも何でも、見つけてくれて嬉しい…。」
 ぽたぽたと瞳から大粒の涙がこぼれる。
 「嬉しいよ…」
 そして、そっと手を離した。手の平の熱もあっという間に下がる。啓はほっと息を吐いた。
 ―――やっぱり、ツェツィーリヤだったのね。
 啓は懐かしい熱による痛みでツィリとは別の涙を流しながら、一方で気持ちが高ぶった。
 それにしても、まだろくな会話もしていないというのに、この感激ぶりはどういうことだろう?どれほど、孤独だったのだろう?どうして、そんなことになってる?監禁されているわけではないんだろう?
 そして、何より、これは夢じゃないのか?

 そのとき、背後でカタンと音がした。



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