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ミドリの一族(4)



 ―――何も見えない。
 啓はその現実に恐れ、知らずに鼓動が速まる。その心臓も正確に脈を打つのではなく、完全に不整脈状態なので呼吸困難も切実な問題だった。だが、何よりもバージュラスに貫かれた腹部の傷が心配だ。先程吐き出した血の残りもまだ口に残っていて、不快だった。
 『もうしばらくです、救世主様!』
 後方からタロタスの声が聞こえる。啓は力なく頷いた。

 『タロタス!前方にトリジュ族が!おそらく、イリド様とジョルジョだと思われる!』

 先陣を切って進んでいたクモの叫び声が聞こえる。
 『お二人は無事か?!』
 『ジョルジョをイリド様が背負っておられます。御二人とも襲撃を受けたようだ。』
 ジョルジョとイリドが?襲撃?
 啓は耳を疑った。別のバージュラスが居るのだろうか。
 啓の心配したことをクモ達全員も考えたようだ。一緒に動いている群れの空気が緊張する。
 『救世主様、しばしお側を離れます。』
 タロタスは口早にそう言った。おそらくイリドの所に行くのだろう。
 彼女が傍を離れた直後、啓は再び吐血した。担いで運んでくれているクモ達が驚き、心配して声を掛けてきたが啓の意識はすでに途絶えていた。

 □□□

 『イリド様!ご無事ですか。』
 「…タランチュラか…。救世主とバージュラスが一体そっちに行っただろう。…その様子じゃ、アンタ達もこっぴどくやられたみたいだね。」
 「仰せの通りでございます。アイーダ様も救世主様も危険な状態です。」
 「…まったく。…もう少ししたらトリジュの門が見えてくる。そこまで頑張って運んで。…バージュラス一匹にここまでやられるとは予想外…。」
 『では、イリド様たちを襲ったのと我々を襲ったのは同じバージュラスなのですね?』
 タロタスの問いにイリドは頷く。
 「ジョルジョが不意打ちを食らってね…。アイツを庇いながらじゃいくら私でも無理だ。」
 イリドが背負っていたジョルジョをどさりと地面に落とした。そばに居たクモに尋ねる。
 「こいつも運んでくれる?」
 『御意。』
 素早く数匹のクモがやって来て痩せた男を担いで運んでいく。
 「アイーダと救世主は毒にもやられてるんだろう。」
 『はい…特にアイーダ様にとってバージュラスの毒は猛毒異常の毒になります…』
 タランチュラが体内に持っている毒とバージュラスの毒は非常に良く似ている。性質的にはバージュラスの毒の方が強く、タランチュラの毒は飲み込まれてしまう。そして悪いことにタランチュラの毒には他の毒を強化する働きがあった。
 今アイーダの体内ではバージュラスの毒と彼女自身の毒が混ざり合った状態になっている。
 「移動しながら応急処置で毒の回るのを抑えてやろうと思ってね。アイーダと救世主はどこだい?」

 『わらわは後で良い。救世主を先に…』

 タロタスが少し戸惑い、アイーダと啓の間を視線が行き来したが意識を無くしてぐったりしている啓を見て「こちらです。」とイリドを啓の所に案内した。
 「へぇ、シャルの守護がついているのか。普通なら即死だ。」
 傍に寄って啓の額に浮き出ている印を見るなりイリドは感嘆の声を漏らした。そしておもむろに啓の腰にぶら下げてある短剣を引き抜く。そして啓の手首を切った。
 ドロドロになった血が少しずつ溢れ出てくる。
 「ひどいな…。」
 そう言ってその傷口にそっと人差し指と中指を当てた。淡く紅い光が二本の指から発せられ、傷口を覆う。続いて、直に斬りつけられた腹部に手の平を当てる。同じく紅色の光が手の平から放出した。
 びくり、と啓の体が反応する。
 「これで、しばらくは平気だろう。次、アイーダだね。」
 『こちらです。』
 タロタスが間髪いれずに女王の元へと向かう。

 アイーダの体は紫色の斑模様が浮かび上がっていた。痙攣するように足がぴくぴくと動いている。
 「派手にやられたねぇ。」
 イリドの声にアイーダの顔が少し動く。
 『あのワガママな救世主のお陰でね…。』
 乗っても大丈夫かい、と女王を運んでいるクモ達に確認を取ってからアイーダの体に乗っかる。
 「そりゃ、こっちだってそうさ。まったく、なんにも自覚してない。」
 どくどくと液体の流れている女王の傷口に両手を当てながらイリドも腹立たしそうに答える。そしてお互いに黙り込んだ。アイ―ダにはそれ以上話す余力が無く、イリドは治療に専念したためだ。

 「アイーダ、あんた、こりゃあマズイよ。」
 イリドはそう言った途端咳き込んでその場にうずくまる。
 『その辺で止めときな、イリド様。あんたの体が持たないだろう。』
 ぜぇぜぇと荒い息をしながらイリドが苦笑する。
 「ごめん。お言葉に甘えさせてもらう。」
 そのままアイーダの上に倒れこんだ。仰向けに横になって暑そうに衣服の襟元をパタパタと動かし、空気を入れる。やがて、先方から叫び声が聞こえた。

 『門に到着しました!』

 イリドが立ち上がってするり、とアイーダの上から降りる。そして門の前に立ち、聳え立つそれに手を当てた。大きく息を吸う。

 「直属軍三軍隊長イリドだ!門を開けろ!」

 大声でそう怒鳴った。
 しばらくすると重い音を立てながら地を振動させて門が開き始めた。その先には二人の門番がお互いに槍を掴んで佇んでいる。
 「緊急だよ、タランチュラのアイーダと救世主は重症。すぐに医者に見せる。そこを退け。」
 二人が顔を見合わせる。
 「しかし、イリド様…タランチュラはっ…!」
 片方の門番が戸惑ったように反論した。
 「タランチュラとは同盟を結んでいる。里の中に入っても何の問題もないだろう。責任は全て私が持つからそこを退いてくれ。ジョルジョも私もこう見えても怪我人だ。早く治療がしたい。一刻も早く退かないと斬って捨てる。」
 早口にそう捲くしたて、腰の剣を抜いた。門番は飛び上がってすぐに脇に退く。
 『イリド様、私達にお乗りください。』
 タロタス達の申し出にイリドはありがたく従い、クモ達の先頭に立って病院まで案内する。地下に作られたトリジュの里に大量のクモ達が侵入し、猛烈な速さで大通りを横切った。その様子は鬼気迫るものが有り、先頭にイリドが居た事が功を奏して誰も行く手を阻んだりはしなかった。

 □□□

 「シュバルツ!」
 「はいはい、何事ですか。」
 奥からのんびりした声で出てきたシュバルツという医者は自分の目が信じられないらしく、しきりに目をこすっている。それから深い溜め息をついた。
 「イリド、いくら幼馴染だからっていっつも面倒事を持ち込むのはいい加減やめてください…。」
 かすれた声でそう言った。しかし言われたイリドはすでに意識を手放して床に転がっていた。医者の顔色が変わる。
 「イリド!」
 彼女の額に手を当てる。首筋に手を当てて脈を取った。彼は温厚な顔に似あわず、舌打ちして苦い顔をした。
 「マズイな…。お前、あれほど体内で解毒はするなといっただろうが!」
 彼が怒鳴っても彼女はピクリとも動かない。くっそ、と呟くとシュバルツはクモ達に向き直った。タロタスが進み出る。そして、その場で変形した。短髪の利発そうな女性が佇む。
 『バージュラスにやられた。女王も救世主も瀕死状態だ。即刻治療してもらいたい。』
 シュバルツは再び溜め息をつく。そして奥の方に声を掛けた。
 「スーザン、すぐにティトリとベンダーを呼んできてくれ。僕一人じゃ手に余る。」
 「了解しましたー。」
 気の抜けるようなのんびりした声が聞こえ、殺気立ったクモ達の横を6歳ほどの少女が通り抜けていった。
 「奥の部屋に連れてきて下さい。それから、女王様は人型化できる余力は残ってますか?」
 後方で咳き込む音が聞こえる。
 シュバルツ達がそちらに視線を向けると口から血を流し、体中に紫の斑模様のできた女性が立っていた。
 『これで良いか?』
 シュバルツが微笑んだ。
 「十分ですよ。さ、奥の部屋へ。」

 □□□

 シュバルツの元に二人の医師が駆けつけ、慌しく治療が行われている頃、里の長の所に啓やクモ達の情報が届いた。
 「なんだと…これはこれは…クモの女王がお出でなさったか。一言挨拶をしに行かねばならんな。」
 事態を理解せず呑気に呟いた男を隣の女性が叱る。長と奥方だろう。二人とも若い。
 「何を言っておいでです?女王は此処に立ち入らないことになっているはず。」
 「そんなこと良いじゃないか。そうは思わんないか?同盟相手だぞ。」
 「しかし、事前に連絡をしてくるのが道理でしょう。」
 ここで横に控えていた男が口を挟んだ。
 「長、女王達は怪我を負っているそうです。着いてすぐにシュバルツの元に駆け込んだと聴いております。それから救世主殿も一緒に居られるようですな。」
 長とその奥方が顔を見合わせる。
 「なんだって、それは本当か?!」
 奥方が尋ねた。男が深く頷く。
 「ふん、ではイリドが戻ってきたのだな。」
 「そのイリドですが…。」
 長と奥方が同時に男を見つめる。男は少し考えてから言葉を紡いだ。
 「バージュラスに襲われて怪我をしていると報告を受けました。ジョルジョも同様です。あまり良い状態とは…。」

 「…なんだと?」

 長の握っていた金の杯がぐしゃりと潰れ、中から透明の液体が滴り落ちた。男が「ですから…」と再び同じ言葉を口にする。
 「イリドとジョルジョがバージュラスの襲撃を受けて危険な状態だと申し上げたのです。詳しくはわかっておりませんがアイーダ様と救世主殿も襲われたのではないかと…。」
 奥方が口元を手で覆う。
 「…」
 長の体がわなわなと震えた。敷布を握り締めるその手に血管が浮かび上がっている。

 「すぐに出向いて事情を聞く。アイーダが来たのならば御付きのクモが居るだろう。」
 「私も参ります。」
 立ち上がった長に合わせて奥方も流れるような動作で立つ。
 「では、私も同行させてもらいます。」
 男が一礼して木製の扉を開いた。



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