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ミドリの一族(3)




 『これでは死なない、か。』

 風を切るような音を立てて啓の腹部から何かが抜かれた。その場に啓は崩れ落ちる。
 『お前が救世主なんだろ。』
 啓は腹部を抑えて歪む視界に耐えながら顔を上げた。
 ―――バージュラス…?
 目の前に立つ男は人の形をしていた。しかしその頭には触覚がついている。黒い長髪を無造作に束ね、笑っている口元から覗く歯は全て犬歯だ。左手は人のもののようだが右手は鋭い鎌のようなものだった。血が滴っている。身に纏っている鎧も黒光りしていてとても啓の短剣では貫けそうになかった。
 『辛いのか?』
 男が愉快そうに啓の顔を覗き込む。啓は体を引きずって少し後退した。全身がガタガタと震え、歯の根が合わない。
 『まだ動けるのか。…体は、強いな。けっこう猛毒だったんだが。』
 男は不思議そうに面白そうに啓を見て、右手の鎌に視線を移した。
 ―――毒…!
 『でも、救世主とか言うからもっと豪傑なの想像してたな。こんな子供だとは。』
 男の触覚が落ち着き無く動いている。
 『此処に来る道がわからなくてな。案内御苦労さま。』
 男が啓に礼を言い、軽く頭を下げた。にやにやと気味の悪い笑みを浮かべている。
 ―――利用された…。
 啓の頭が鉛のように重くなった。毒のせいかもしれないし、単なる自己嫌悪のせいかもしれない。

 『居るんだろう?アイーダ。』
 相変わらず、返事は無かった。しかしその言葉を聞いて啓は男が此処に来たがった意味を初めて理解した。
 ―――アイーダは匿ってもらっていると言っていた。私がその敵を連れてきてしまったんだ。
 霞む視界、荒い呼吸の中で啓は自分の軽率さを呪った。アイーダが無事に逃げてくれれば良いんだけど。そう思った。自分のせいで誰かが死ぬなんて、嫌だ。
 『何を黙っている。居ることはわかっている。』
 男の苛立ったような声に初めて返答が返ってきた。
 『わらわは貴様等の所には行かぬ。』
 『それは重々承知済みだ。でなければこんな所でコソコソ隠れているわけが無い。』
 男が嘲笑うように顔をゆがめた。
 『今日はお前を殺しに来たんだ。昆虫でもないくせに昆虫のような目障りなお前をな。』
 『わらわを殺す、と?殺されるとわかっていてわらわが出て行くと思っているのかい?』
 アイーダの言葉に男は遂に堪えきれなくなったように噴出した。声高に高笑いしている。
 『此処にお前が出てこずにいられない者が居るだろう?』
 男は啓の頭上に右腕の鎌を振り上げた。ちょんちょん、と啓は鎌で突付かれたのがわかったが、体がうまくいうことを聞かなかった。
 『愉快だ。』
 そう言って鈍く光るそれが啓に向かって振り下ろされる。
 ―――あぁ、今度こそ殺される。

 「?」

 朦朧とする意識を何とか保ち、閉じていた目を開いて啓は様子を見た。目の前で何かがゆらゆらと揺れている。定まらない視界に苛立ち、目を細めた。そして軽く仰け反る。彼女の顔まで数センチのところで男の鎌が止まっていた。
 啓の体は自分で自分を支えることができず、仰け反った勢いで仰向けに倒れる。起き上がろうとするがムリだった。力が入らなくなってきている。
 『やはり出てきたな。コイツは救世主。助けなければいけないよなぁ…と言っても俺たちバージュラスには関係の無いことだが。』
 男が余裕の笑みを浮かべてそう呟いた。

 『お前達は狂っている。ヴェノス・ニックタールの予言を信じている虫けらめ。』

 『…なに?』
 男の顔色がガラリと変わった。自分の右腕に絡みつく糸を引き千切る。しかし男が意識を糸へ向けた途端、啓の体がぐいっと引っ張られた。
 『チッ』
 ジェットコースターよりも速く啓は空中を飛び、女性の腕に収まる。
 「あ…アイーダ…さん?」
 啓は弱々しく女性の服を握った。
 『まったく、世話の焼ける救世主だこと。』
 「ごめ…なさ、い。」
 啓の瞳からポロポロと涙がこぼれた。
 『お前達、この子を守ってなさい。』
 ぽいっと放り投げられた啓はボーリング球ほどの大きさのクモ達に優しく受け止められた。

 『死ね!!女郎蜘蛛!』
 『そう簡単に殺される気は無いからのう。一人で勝てる相手だと思うたか。』

 アイーダは口から大量の糸を吐き出した。
 『こざかしい!』
 男が体に絡みつく糸を右腕で斬りつける。
 『暴れるんじゃない。見苦しい。…殺っておしまい。』
 アイーダがさっと手を伸ばすと、どこからとも無く出現した大量のクモ達が男に襲い掛かった。
 『くそっ!やめろ!』
 男の振り回す右腕に斬られ、何匹ものクモ達が地面に叩きつけられた。致命傷を負わされなかったクモも毒に犯されて身悶えしながら絶命していく。
 啓がその景色に耐えられず、目を逸らしてアイーダの方を見ると彼女もまた辛そうな顔をしていた。しかしその瞳はじっとそのクモ達から離れない。まるで、そのクモ達の勇姿を目に焼き付けようとしているかのように。

 暴れまくる男の体には糸がどんどん巻きついていく。やがて男は動けなくなった。全身が白い繭のようになっている。
 『始末は私がつけてやろう。』
 アイーダが変形していく。どんどん大きくなる。
 『救世主や、ムリに見なくて良いからのう。』
 そう呟いて、本当の姿に戻った巨大な女郎蜘蛛は音も立てずに獲物に近づいた。

 『場所が不利だと言うことに気付かぬ愚か者め。お前達の戦場は広い空間であろう。此処は違う。』

 そう呟いて繭に牙を食い込ませた。

 □□□

 啓は毒によってもはや何も見えなかった。しかしその事によって余計に研ぎ澄まされる耳に周りのクモが息を呑む音が聞こえた。
 『アイーダ様!』
 悲痛な叫び声があちこちから聞こえる。
 「何、…アイーダが、どうしたの?」
 啓の声はかすれて、小さかった。周りのクモには聞こえなかったようだ。

 『来るんじゃないよ、お前達。』

 啓の耳には元気な時と同じようなアイーダの声が聞こえた。

 『まだ、動けたとはね…。』
 『…相討ちだ。これで…俺の…任務が果た、せ…た。』

 どうやら男は死んだらしい。
 ―――相討ち?
 『お前達、悪いが、救世主をトリジュの里まで連れていっておくれ。』
 『嫌です!アイーダ様の傍におります!』
 周りのクモ達が泣きだしそうな声で叫んだ。
 『聞き分けの悪い子は好かぬ…。救世主の毒の話は聴いておったろう?猛毒だからの。それに、わらわ達の糸も絡み付いておる。そっちの時間も、もうギリギリだのう。死ぬことは無いが…』
 此処でアイーダはふっと笑った。
 『全身の毛が抜けてしまうのう。救世主とて女じゃ。恥ずかしくて外が歩けなくなるかもしれぬ。』
 啓は毛の抜けた自分を想像して身震いした。
 『しかしっ!』
 『行け。』
 なおも言い募ろうとしたクモを有無を言わせない一言で黙らせる。啓の体が持ち上げられた。
 「アイ…ーダ、も。」
 啓は怒鳴ったつもりだった。それでも独り言程度にしか聞こえない。しかし、今度は周りのクモにも聞こえたようだ。
 『何か?』
 「アイーダも連れて、行…く。」
 咽に何かが昇ってきて啓は咳き込んでそれを吐き出した。口の中に嫌な鉄の味が広がる。
 『かしこまりました。』
 傍に居たクモは即答すると周りのクモに指示を下す。

 『タロタス・・・何を勝手なことをしておる…。』
 『救世主殿のご命令ゆえ、辛抱ください、アイーダ様。』
 『わらわを救おうと言うのか。…間に合わぬわ…。』
 『それはわかりませぬ。―――皆の者、激しく動かすな。慎重に、迅速に運べ!』
 タロタスはその場をしっかりと取り仕切った。周りのクモ達は言われた通りに啓とアイーダを薄暗い空間から運び出した。



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