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ミドリの一族 上(12)




 「へぇ。じゃあ良い感じなんだな。」
 シュバルツがイリドの傷口の包帯を取りかえて異常が無いか確認する。
 「まぁね。実際の所、反射神経と持久力はアタシでも目を瞠るものがあったよ。こっちがクタクタ。」
 イリドが苦笑する。
 「特訓してやるのは良いことだが、お前無茶するなよ。」
 「平気だよ。こんな傷で何もできなくなってたんじゃ隊長なんか務まらないからね。」
 用意された昼食のパンを口に含む。
 「クライドの分身の集まり具合はどうなの?」
 シュバルツは紅茶を入れながら答えた。
 「詳しいことはさすがに俺には言ってくれねぇよ。ただの医者だからな。」
 「でも何か聞いてるんでしょ。」
 「…まぁ、ちょっとは。1番近くに配置されてるアドリアーノがもうすぐ着くらしいってこと。他のやつはあさっての出発になるみたいだ。荷物まとめたりなんだかんだしてると、そうなるだろうな。急な話だし。」
 「ふーん。2週間は特訓できそう。」
 いたずらっぽい笑みを浮かべてイリドは笑った。
 「筋が良いのか。」
 「…まぁね。じゃなきゃアタシ教えない。」
 「だろうなぁ。」
 「正直なこと言うとあそこまでできる子だとは思ってなかったよ。負けず嫌いでねぇ。」
 シュバルツは少し意外そうな顔をした。
 「お前がそこまで言うとはね。ちょっと期待しちまうな。」
 コンコン、とドアがノックされた。シュバルツが扉を開けると意外な人物がったっている。
 「アイーダ様…?」
 「救世主を特訓してるんだって?」
 人の形をした女王はすっかり顔色もよくなっている。
 「まだ動かれては困ります。」
 シュバルツの言葉にアイ―ダは笑う。
 「平気だよ。傷は塞がってないけど毒は抜けたしねぇ。」
 「で、何の用?」
 イリドがちっとも敬わずに質問した。

 「簡単なことさ。その特訓にわらわも混ぜてもらおうと思ってねぇ。」

 「…はい?」

 意外な申し出であった。

 □□□

 「えぇ!アイーダも?」
 午後の特訓のために裏庭に出た啓はイリドの言葉に仰天した。
 『おや、ダメかい?』
 音もなく啓の背後に忍び寄ったアイーダがそっと啓の首を掴んだ。
 『気を抜きすぎだよ、いっつも心のどこかでは警戒してないとねぇ。』
 「…はい。」
 ―――怖っ!
 ふふ、と笑い声がしたかと思うとパッと手は離れた。
 『と言っても、まだ体が万全じゃないからねぇ。ここで観察して口出しさせてもらうよ。なぁに、動くようになったら参加するからね。』
 そう言って少し距離を置いたベンチに優雅に腰掛けた。
 そして、地獄の特訓が再び始まる。

   「動きが鈍ってるよぉ!」
 啓はなんとか向き直って正面からイリドの剣を受け止める。しかし吹き飛ばされた。地面に右肩をしたたかにぶつける。しかし、すぐに立ち上がって構えなおした。
 ―――手がビリビリ痺れてる。すごい力…。
 アイーダの笑い声が聞こえた。
 『ダメダメ、腕力がないんだから、まともに受けちゃ負けるよ。頭をお使い。』
 空手をやっていた頃の技を思い出した。
 ―――…受けられないなら捌くしかない。それか、カウンター。
 啓は相手の動きをしっかりと目で追う。顧問の先生の言葉を言い聞かせた。

   『カウンターってのは、相手にやられてから攻撃を返すものじゃない!相手が来ると思ったら自分も行くんだ!そして相手よりも早く技を決める。それが本当のカウンターなんだよ!殺られてからじゃ技は出せないだろ!』

 「…あっ」
 見失っちゃった!
 言い聞かせることに集中するあまり、イリドへの注意力が散漫になってしまっていた。
 「ここだよ!」
 啓の頭上を影が覆う。
 ―――上!ジャンプ力異常!
 咄嗟に前に転がって避ける。
 えっと、…さっき何考えてたんだっけ?どうしよう、びっくりしたから忘れちゃった。
 「ほらほらほらぁ!」
 「うわっ」
 イリドの連続攻撃が啓を襲う。
 『あらら…。捕まっちゃったわぁ。』
 イリドの技を必至に受けるだけで啓はどんどん後退していく。
 『やっと見つけましたぁ、アイーダ様!』
 タロタスがやって来てのんびりとしている女王に話し掛ける。
 『今面白いものをやっているんだよ。お前も見てごらん。』
 『…まぁ、あれは救世主様ですよね?このような明るい所では良く判別できませんが…相手はイリド様ですか?』
 タランチュラは目が悪いのである。
 『そう。特訓をしているんだよ。お前も何か気付いたら声を掛けておやり。』
 『はい。』
 ―――なんか見物人増えたし!
 「ほら、余所見すんな!」
 「はい!」
 金属音が何度も響く。
 『落ち着きな、救世主。頭真っ白じゃ負けるよ!』
 アイーダの声が再び響いた。
 ―――わかってるよ!でもどうしようもないんだ!必至すぎて考えてる余裕なんか無い!
 「はぁっ…はぁっ」
 自分の荒い呼吸が気になって上手く集中できない。
 ―――考えろ、考えろ。…あぁ、カウンター!そうだった、それだよそれ!
 動きを、良く見て、先を読む。
 「!」
 啓はイリドの懐に飛び込んだ。反射的に危険なイリドの剣を空いている左手で腕ごと押さえる。
 「やぁぁ!!」
 剣を握った右手を突き出した。
 「…お見事。」
 少し荒れた息づかいに混じってイリドの声が聞こえた。
 「でも目ぇ瞑ってちゃダメでしょ。」
 ピンッと額にデコピンを喰らう。
 「わ、私…今」
 『お見事!一本です!救世主様!』
 タロタスの声がやけに遠くに感じる。アイーダの笑い声がまた聞こえる。どちらを笑っているのか。
 ―――やっと、一本取れた…。
 胸が詰まるような、締め付けられるような感覚になる。ポタッと水滴が落ちた。
 「…あ」
 ポタポタとどんどん地面に落ちていく水滴。
 「あれ?…私、なんか目から出てくる…なんでだろ…」
 イリドはそんな啓をじっと見ている。
 「…あー、すいません、特訓中に。」
 「休憩する?」
 「…はい。」
 啓はイリドと共にアイーダとタロタスが座っているベンチまで行き、座る。
 『えぇ!救世主様!どうかしたんですか?どこか痛いんですか?』
 タロタスが慌てて尋ねてくる。啓は首を振った。
 「私にも、よく、わからない…」
 イリドが汗を拭くタオルで乱暴に啓の涙を拭った。しかし、拭った傍からまた溢れてくる。
 「切りがないねぇ…」
 呆れたように呟いた。そのまま啓の顔にタオルを押し付ける。
 ―――何も見えないよ!押さえつけすぎ!息がっ!
 タオルを剥がそうと手を掛けたが、イリドがしっかりと押さえていた。啓は戸惑う。
 「昨日は言い過ぎた。ごめん。アンタもアンタなりに頑張ってたんだね。」
 突然の謝罪に啓は耳を疑った。しかし、空耳ではないらしい。思わずタオルを剥がそうとする手も止まった。
 「…今日の特訓はここまで。明日は今日と同じ時間に始めるからね。泣き止んどきなよ!」
 顔にかかる圧力がなくなった。途端に呼吸が楽になる。誰かが遠ざかっていく足音が聞こえた。
 『意地っ張りで、恥かしがり屋だねぇ。』
 アイーダの呟きがおかしくて、啓は泣きながら笑った。
 しかし、その表情は見る見る崩れてポロポロと再び涙が洪水のように流れる。
 『良かったね。ずっとイリド様に認められたかったんだねぇ。』
 アイーダは啓の頭を撫でていてくれた。
 「大好き。」
 『そうかい。』
 「みんな大好き…!」
 『そりゃあ、良い事だよ。』
 啓はアイ―ダに抱きついた。女王はくすくす笑って抱きしめ返す。その隣ではタロタスが少し羨ましそうな顔をしていた。

 □□□

 目の前でシュバルツが腕組みをしている。
 「次から次へと、よくこんなに怪我できますね。」
 仕事中の温和な口調で呆れたように呟いた。
 「…すいません。」
 「この子が弱すぎんのよ。」
 啓の額からは血が流れ、切り傷や擦り傷、打撲が体中にできていた。
 真新しいそれらの傷のほかにも包帯が巻いてあったり、布が当ててあったり、テーピングのような物で固定してあったり、とそれはもう戦場から帰ってきた兵士さながらの状態だ。
 「まだ3日目でしょう?」
 シュバルツはブツブツ言いながら啓の額の傷を診る。消毒した後、ヌメヌメとした謎の物体を塗りつけた。その上に布を当てて固定する。
 「はい、終了。ただし、今日はもう特訓は禁止です。」
 「ええっなんで?!」
 これに抗議の声を上げたのはイリドだ。
 「…頭怪我してるんですよ?脳震盪起こして倒れたんですよ?今日は休みです。」
 ―――う、嬉しい…!
 啓は心の中で歓声を上げた。
 まだ特訓3日目とは言えど、ボロボロの体は休息を必要としていたのである。この日の脳震盪も元を辿ればそのせいもあるのだ。全身の筋肉痛、常に気を張り巡らせて置かなければならない緊張感で心身は疲弊していた。それで反応が極度に遅れたのだ。辛うじて剣の直撃は防いだものの、また吹っ飛ばされて木に激突した。
 「仕方ないねぇ…」
 渋々イリドが承諾する。畳み掛けるようにシュバルツは続けた。
 「それから、3日に1度はしっかりと休息を取りなさい。」
 「はぁ?!ただでさえ時間無いってのにそんなことできるわけ無いだろ!」
 シュバルツは半眼になってイリドを見据えた。
 「医者の、命令だ。」
 医療道具を洗浄しながら「それに、」と続ける。
 「あなたの体のためでもあるんですよ、イリド。病み上がりで暴れまくって良いと思ってるんですか?」
 「別にアタシはたいした傷じゃなかったろ?毒がひどかっただけだよ。」
 「ダ・メ・です!」
 アイーダと共ににこやかに様子を見守っていたタロタスが提案した。
 「じゃあ、こうしたらどうですか?」
 啓にしてみれば、最悪な提案だった。

 □□□

 啓がタロタスの提案に耳を傾けている頃、1人の男がトリジュの門の前に立っていた。
 「あー、なんか久しぶりだなぁ。」
 全身緑。
 服はパジャマ。
 「開けてくれないかなー。二番隊隊長のメ、じゃなくてアドリアーノですけど。」
 門の向こう側はしんとしている。聞こえていないのだ。彼はぽりぽりと頬を掻いた。
 「怒鳴るのって柄じゃないんだよなぁ…。」
 仕方なく、門を拳で叩いた。門が悲鳴をあげているような轟音が響く。尋常ではない力で叩いているのだ。しかし当人の表情はいたって涼しげである。
 「なっ何者だ?!」
 門の向こうから慌てたような声が聞こえた。
 「僕だよ、僕。」
 「名を名乗れ!」
 「アドリアーノでーす。」
 門の向こうが沈黙している。
 「貴様っ名乗らんか!!」
 「あらら、聞こえないみたい。」
 ―――どうやって中に入れてもらおう。
 「自分で開けた方が早いのかな?でもなんか怒られそうだな。」
 果てしなくくだらないことで割と真剣に悩んでいる。そして意を決したのか、両手で門を押した。ゆっくりと門が開いていく。
 「おい、コラ、何をする!」
 門番が怒鳴った。しかし、門を押し戻そうとした門番はその隙間から青年を見た。
 「あ、あなたは、アドリアーノ様…!」
 片方の門番の声にもう1人の門番も絶句して慌てて門を開いた。
 「無茶はやめて下さい!」
 「うん、ごめんね。声が届かなかったからさ。これからは怒鳴れない人のために覗き口みたいな穴を開けた方が良いかもね。」
 門番は敬礼して「進言しておきます!」と言った。
 アドはたいして興味もなさそうにひらひらと門番に手を振って自分の家目指して歩き出す。
 門番は依然として敬礼したままだ。その肩が小刻みに震えている。
 「相変わらずの…」
 「服装だな…。」
 彼らは込み上げてくる笑いを必至に堪えていた。



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